日本にルーツを持ち海外でも活躍する有名人たちが、これまでにバイレイシャル、ミックスレースとして感じたこと発言しています。 2020年の「ウォール・ストリート・ジャーナル・マガジン」のインタビューでは、ミックスレースとしての胸の内を語りました。 「私と同じような日本人のための居場所を作ろうとしています。私と似たような見た目で、日本に住んでいても、レストランで英語のメニューを渡されてしまう人たち。これはマイクロアグレッション(日常の中に潜む差別)だと思います」 また、若い頃に日本の対戦相手と試合をしたときの経験を、このように振り返っています。

「その選手は別の日本人選手と話をしていました。私が聞こえていても、私が日本語をわかるとは知らなかったんだと思います」 「2人の話の内容は対戦相手の私についてでした。私のことを『あの黒人の子? あの子って日本人なの?』『いや、違うでしょ』って」 「これは忘れられません。時々、彼女たちだけじゃなくて、他の多くの人も私についてそう思っているんだろうなと感じることがあります」 ミックスレースの友だちの自殺を受け、人種差別と戦う術としてミス・ユニバースに出場するも、外見について批判を受けました。 2015年のAFPのインタビューでは、こう語っています。 「批判に備えて心の準備はしていました。でも、傷付かなかったと言えば嘘になりますね。私は日本人です。電話でも受話器越しに立ち上がってお辞儀をしてしまうタイプです。批判はモチベーションになりました」 「ミスコン出場は友だちの死が理由なので、過剰なプレッシャーは感じませんでした。目標は人種差別に目を向けてもらうことでしたから」 「今、初のアフリカ系ミス・ユニバース・ジャパンとして、メッセージを発信する手段を得たと思います」 また、自身の幼少期についても振り返りました。

「子どもの頃は、見た目で目立ってしまったので、周りに馴染もうといつも気にしていました。目立たないよう、注目されないようにしていました」 「今は、思ったことを口にし、自分のやり方でやっていくつもりです」 12歳までカリフォルニア州ロサンゼルスで育ち、その後、フロリダ州に転居。日系であることを、友達にからかわれた経験もあったそうです。 2021年の「Teen Vogue」のインタビューでは、自身のルーツについてこう語っています。 「どこにも居場所がない感覚でした。俳優になっても、アジア人役を演じるには『アジア人っぽさ』が足りない気がして。日本のルーツを武器にしようと思ったことはありません」 「アジア人役をやったら、炎上しそうな気がしていたんです」 インタビューでは、1950年代に日本からアメリカに移住した日本人の祖母についても話しています。

「ぼくのばあちゃんはタバコを吸っていました。子どもの頃、バルコニーでしゃがんでタバコを吸っていたばあちゃんをよく見ました」 「後から知ったことですが、戦時中は飛行機に見つからないよう、灯りを消し、外ではしゃがんでいたそうです。ばあちゃんのタバコの吸い方もその影響だったのかなと」 「もっといろんな話を聞いておけばよかったと、今は思います」 2006年に行われたエンタメメディア「Rotten Tomatoes」のインタビューでは、自身のアイデンティティについてこう語っています。

「ドイツ系イギリス人の母に育てられましたが、外見を(根本的に)変えることはできません。自分の外見が、感性に強く影響したと思います」 「アジア出身として、自分の文化を表現することを許された人は多くありません。なので、映画に出演するたび、アジア人代表として表現しようという気持ちがあります。私にとって、とても大切なことです」 彼女はドイツ、スコットランド、アイルランド、日本にルーツを持っています。 映画メディア「IndieWire」の2018年インタビューでは、俳優業についてこう語りました。

「(俳優業よりも)声優の仕事の方が世界がひらけました。顔が見えないので、やりたいように自分を表現できましたから」 「俳優業では、バイレイシャルは少し特殊です。アジア人ぽくない、白人らしくないと何回も言われてきたので、見た目について常に異常なほど敏感になってしまいました」 音楽メディア「SXSW」の2017年インタビューでは、仕事をする上でバイレイシャルとして受けた影響を語っています。 「バイレイシャルであることが、自分を形作るのは当たり前です。いろいろな経験をしますから」 「例えば、俳優としては『アジア人ぽくない』という理由で、アジア系アメリカ人の役は回ってきません。人種設定がない役のオーディションに行くと、今度は『白人らしくない』という理由でダメ」 「これは私の見た目で、私という人間の一部分というだけなのに」 2021年に行われたエンタメ雑誌「People」のインタビューでは、自身のアイデンティティについて、さらに詳しく語っています。

「母は日系カナダ人で父は白人。バイレイシャルとして育つうえで、自分のアジア系ルーツと向きあうのには長い時間がかかりました」 「その後、自分のルーツやカルチャーと向き合うようになりました。若い頃は、ルーツまで考えている余裕がなかったんです」 アジア系アメリカ人について発信するメディア「JoySauce」が今年行ったインタビューでは、ミックスレースとしての過去を振り返りました。 「インターナショナルスクールに通っていたので、(日本からアメリカに)引っ越してもとくに違いは感じませんでした。父はアメリカ人ですが、父方の祖父母はロシアからの移民。母は日本人だけど、ロシアとのクォーターです」

「人をカテゴリー分けする人は、自分自身も何かのカテゴリーに囚われているのだと思います。それは、広い世界を冒険することから自身を切り離してしまうということ」 「いちばん大切なのは、成長することと、自分を知ること。失敗はつきものだし、理解できないこともあるかもしれないけれど、自分を信じることを教えてくれた両親に感謝しています」 「なので、アジア人とか、半分アジア人とか、そういうのは特に人生において重要ではありませんでした」 「学校で母親と日本語で話していて、うちは変わってるのかなと思うことはありました。日本から移住してきた当時は、第二言語を持たない人が多かったので」 「何事もどう捉えるか次第。英語と日本語も話せるなんて、素敵なことだと思っています」 雑誌「Working Mother」の取材では、子ども時代についてこう語っています。 「子ども時代はいつも1人でした。韓国系日本人の母とアフリカンアメリカンの父の間に生まれた、ミックスの子ども。通っていた学校には、私と同じような子はいませんでした」 「11歳の時、すでに身長が180センチを超えていましたし、シングルマザーもうちだけでした。『チンキージラフ(アジア系のキリン)』と呼ばれて、いつも泣いていました」 「でも、涙をポジティブな力に変えるよう、母が支えてくれました」 その後、母親はキモラをモデル事務所に所属させます。キモラは、シャネルのデザイナーであるカール・ラガーフェルドに見出されました。 13歳でシャネルとモデル契約。フランスに渡り、以降も21世紀ファッション界の象徴として活躍しています。 驚きの写真の数々に、思わず共感してしまう体験談、セレブの最新情報から徹底的に掘り下げた調査報道までーー。 「世界のイマ」がわかるホットな話題をお届けします。

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