そんな当たり前のことが、重い障害があるとなかなか実現できないのが今の日本の実情だ。 でもその厚い壁を突き崩し、後から続く仲間にも道を切り開いている人たちがいる。 徳島県で初めて24時間介護を認めさせ、今では障害がある人の自立支援に取り組む「徳島自立生活センター」代表の内田由佳さん(40)もその一人だ。 BuzzFeed Japan Medicalは内田さんにこれまでの道のりを聞いた。 でも、歩きにくく、転びやすい。「自分は周りの人と違う」と意識し始めた頃、「体を治すため」と言われ、家族から一人離れ小学部に併設された施設に入所した。まだ6歳。寂しい気持ちは押し殺した。 しかし、治るどころか伝い歩きさえままならなくなり、車いすを使い始める。これ以上悪くなりたくなくて、廊下を懸命に往復したりしてみたが、効果は見られなかった。 「20歳前後で亡くなるとか、筋力がどんどん落ちていくなどと書かれていました。衝撃でした」 だんだんできないことが増えていくのに、誰も自分の病気について教えてくれない。大学進学も決まった高校卒業直前の18歳の頃、「私は筋ジスなんですよね?本当のことを教えてください」と詰め寄った。主治医は初めて筋ジストロフィーについて教えてくれた。 「主治医は最後まで病名を伝えるつもりはなかったようです。でも私は自分の体ことなのに、なぜ誰も言ってくれないのだろうと疑問を抱いていました」 筋ジストロフィーは現代の医学では治す方法がない。「精神的なショックを考えて、本人には伝えない方がいいのだ」という考えがまかり通っていた時代。当事者だけがカヤの外だった。
「施設を出たい」大学進学で念願の下宿生活
施設は食事や消灯の時間も決まっていて、どれだけ眠くなくても、お腹が空いていなくても、集団生活の都合に合わせなければいけない。トイレの時間も決まっているから、水分をなるべく取らないようにして我慢するのが当たり前だった。外出も滅多にできなかった。 「施設の中でずっと育って、外の世界への憧れがすごく強かったので『絶対ここを出て生活していく』という気持ちが大きくなっていきました」 施設を出たい一心で香川県の大学に進学し、自分の生活に身近な社会福祉士の資格を目指すことにした。先生に勧められて教員免許も取る目標ができた。 下宿先には母と祖母が交代で泊まり込み、大学では手探りで集めたボランティアに介助を頼んだ。 「障害がある知り合いもいなかったので、行き当たりばったりで関わってくれる人を増やしていきました。外の生活でどう介助を受けて生きていくかの情報がまったくなかったのです」 学業、友人たちとの交流など、施設では味わえなかった自由を謳歌した。 単位は順調に取れていたのに、教育実習や国家試験の準備がままならなくなり、社会福祉士や教員免許を取ることは諦めざるを得なかった。大学はなんとか卒業し、21歳の時に実家に戻った。 急に目標がなくなった喪失感に追い討ちをかけるように、病状も進行した。指先以外は動かなくなり、ほぼベッドに寝たきりとなった。鼻マスク式の人工呼吸器を常につけ、20代半ば頃には日常生活の全てに介助が必要になった。
年を取る家族の介助負担「情けなく、申し訳ない」
その頃、公的な介護は1日5時間程度入り、残りの時間の介助は近所で自営業のおもちゃ屋を営んでいた両親が担っていた。 「日中、びっちり一緒にいられるわけではないので、ガラケーで私が連絡したら母親が店から帰ってきて私の介助をしてくれる、という体制でした」 日中の介助は主に母が引き受け、夜間は父が担う。体位変換は1 日15回、たんの吸引は1日20回以上。夜間の排泄は寝る前から水分を控えてなるべく我慢していたが、どうにも耐えられなくなったら父に処理してもらうしかない。生理の時もそうだった。 「最初は父に処理してもらうことは気になっていたのですが、そういう意識を持つと辛いと気づいて、そう思わないように心を麻痺させていました」 家族による介助は遠慮が付き物だ。 「体位交換とか、水が飲みたいとか、腕の位置を変えてほしいとか希望があっても、『今は休んでいるから頼まない方がいいかな。次に立ち上がった時についでに頼もう』と遠慮してしまっていました」 介助を頼んだ時に家族同士の気やすさからか両親から「また?」と言われるのも、辛かった。それでも介助を頼む身としては、グッとこらえるしかない。 それに親も60歳を過ぎてくると、仕事をしながらの介助生活は体に堪える。 「疲れている様子が垣間見られることが増えていきましたし、『しんどい』とか『腰が痛い』『腕が痛い』と漏らすこともありました。それでも私は介助を頼まざるを得ない。情けなく、申し訳ない気持ちになっていました」 「その一方で、『でも私はこういう病気に生まれたのだから、仕方ないじゃないの!』と両親を責めるような気持ちも浮かんでくる。そういう自分も嫌になって、自己嫌悪に陥りました」
24時間介護を申請 自治体から却下
父母が年をとって介護の負担が重くなる中、このままでは自宅で暮らせない。ヘルパーを増やせないか事業所に聞いてみても、「ヘルパーが足りないから」と断られた。 一時は施設に戻ることも考えたが、やはりあの制限ある暮らしにはどうしても戻りたくなかった。 「施設は絶対嫌だから、何か別の方法はないか考えました。障害者の自立支援をしている自立生活センター(CIL)を思い出して試してみたいと思い、ネットで調べ始めました」 「自立生活センター・高松」に連絡を取り、家族介護に頼らない道を模索し始めた。自分でヘルパーを雇って確保する「自薦ヘルパー」という手段があることを知った。長時間の見守りを可能とする「重度訪問介護」という制度も使える。 しかし、家族介護に頼らずに生活するためには、住んでいる自治体に24時間分の公的介護の費用を支給してもらう必要がある。その支給があって初めて、ヘルパーを派遣してもらうことができるのだ。 しかし当時、徳島県には24時間分を獲得して自立生活を送っている重度障害者はいなかった。県外への移住も考えたが、「24時間介護の空白地帯である徳島で、道を切り開いて」と仲間から応援された。 まずは、自宅のある徳島県美馬市で、自分で24時間の介護を申請してみたが、「前例がないので」とあっさり却下。月60時間しか認められなかった。それでは家族介護から離れることはできない。 前例がない徳島では行政との交渉は難航することが考えられた。全国で24時間介護の交渉を繰り広げている「介護保障を考える弁護士と障害者の会 全国ネット(介護保障ネット)」の弁護士を紹介され、CILを通じて全国からカンパを受けて弁護団を結成した。
介護保障ネットの弁護士支援を受け、24時間介護が認められる
2012年に結成された介護保障ネットは、全国で交渉の実績がある弁護士が、当事者が住んでいる地域の弁護士に行政との交渉に必要なノウハウを伝えバックアップする。そうやって弁護士も育てながら、全国に専門家による支援の輪を広げてきた団体だ。 内田さんの病気や生活や介護の状況を聞き取り、医師の意見書も作り、家族の介助だけでは命の危険さえあることを証明する書類を作っていった。 日中仕事をしながら夜間の介護を担当する父は、2〜3時間ごとに介助のために起きることになる。 「疲れているからか、なかなか起きてもらえないこともありました」 日中、一人でいる時に、痰が詰まって店にいる両親を呼ぼうとしても、携帯電話が胸の上からずり落ち、呼べなくなった時もあった。 「その時は親が偶然帰ってきてくれて見つけてくれたので助かりました。そういう命の危機は何回かありました」 今は鼻マスク式の人工呼吸器で生きている内田さんだが、万が一、呼吸器が壊れてしまった場合、アラームの音が聞こえる場所に両親はいない。携帯で呼び出すのが遅れれば、窒息してしまう危険も常にある。 そういう問題を行政に説明する文書を半年かけて作ってもらった。再び弁護士によって2014年1月に24時間介護の申請を出し直し、交渉を繰り返すと翌年春に認められた(月860時間)。 「交渉実績がある介護保障ネットのアドバイスはとても大きかったですし、行政も弁護士が証拠書類を固めて交渉に乗り出してきたので慌てて認めたようです」 「これで道が拓けたと思い、安心しました。交渉前は周りから『人に負担をかけて自立生活なんて無理だ』と言われていたので、いろいろな人がサポートしてくれたら行政もわかってくれるんだ、間違っていなかったんだと感動しました」
念願の一人暮らし 必要な介助を受けられる生活
ヘルパーを派遣する基盤ができた後は、ハローワークに求人を出して10ヶ月近くかけて自分専用のヘルパーを5人雇っていった。一人暮らしをするために翌年に徳島市に同じ資料で申請を出し直し、月858時間が認められた。 2016年3月、念願の一人暮らしのアパートに引っ越し、「やっとここまで来れた」とホッとした。 実家にいた時とは違い、外出も自由だ。 「ご飯の買い物のためにスーパーに行くということさえ、実家ではできず、出されたものを食べるという感じでした。今は、スーパーで好きなものを選んで、自分の好きなメニューを作ってもらう。家族以外の人と出かけるのも数年ぶりでした」 両親に介助をお願いするのと、報酬を支払うプロのヘルパーに指示するのは、気持ちが全く違う。 「家族だと後ろめたさが先に立ってしまって、少しでも負担を減らそうとか、大変にならないようにしようと気を遣ってしまう。もちろん介助者さんにも気遣いますが、後ろめたさはないです。必要なことを仕事として頼むだけなので、気持ちは楽になりました」 自分が生きるために必要な手助けを頼むのに、後ろめたさを感じる生活。 「生活のすべてでそんな思いをしていたので、自分でも感覚を麻痺させていたのだと思います。高校ぐらいまではなるべく負担をかけないように我慢するのが、生きていくために楽な方法でした。でも体はどんどん不自由になるので、必要なことは言うようにはなったのですが、それを快く思わない人もいました」 今はヘルパーとは対等な関係を築けている。もちろん、ヘルパーを自分で雇って研修なども責任を持って行う今の方法は大変でもある。障害のあるすべての人が同じやり方ができるとも思えない。 「それでもお客さんとしてサービスを受けるよりも、自分で運営する今の体制の方が私には合っています。この方法が合わない人も、苦労せずに介護を受けられるようになってほしいです」
介助を受けて生きるのに後ろめたさを感じさせる社会がおかしい
自立生活を実現するために苦労した内田さんは、施設や親元で同じような悩みを抱えている人に自立支援をする「自立生活センターとくしま」を2018年6月に作った。 「自分が自立する時にすごく大変だったので、後に続く人にそういう思いをさせたくない。いろいろな情報を伝えたり、相談にのったりしています。自立生活についての講演も行っています」 これまで15人の自立や就学の相談にのり、3人の自立支援を行ってきた。脳性麻痺の男性が一人、グループホームから一人暮らしに漕ぎつけた。 健常者なら、20歳を過ぎて親元から離れて、自分の選んだ場所で一人暮らしをすることは当たり前のことだ。 「でも障害がある自分が自立しようとした時は、『自分勝手だ』と言われます。自分で生きていきたいというだけで『自分勝手』と言われてしまうのはどうしてなのでしょう。 そう思わせる社会はおかしいし、変えていきたいのです」 支援をした脳性まひの男性は行政に「なぜグループホームではダメなんですか?」と言われたこともある。 「私の記事を読んで、自立生活を求めるようになった人なんですが、私のような社会的な活動をしていないじゃないかと言われたそうです。障害者は、何か特別なことをやっていないと自立生活を認めないなんておかしいです」 「私たちにとって介助を受けるというのは最低限のセーフティネットです。皆さんが電気やガスや水道を使うのと同じインフラのようなものなのに、すごく特別で限られた人しか利用できないもののように言われる現状があります」 社会的に意義のある活動をしていなかったら、「水」が飲めないなんておかしい。障害者が自立生活するための24時間介護に歯止めをかける社会に、内田さんはこう訴える。 「障害者が介助を受けて生きることに社会が後ろめたさを感じさせているのは、すごく問題です。それを変えていきたいと思っています」 台湾や韓国の事例も紹介され、介護保障ネットの支援を受けた当事者からのメッセージとして、内田さんも出演する。無料。